えー、稲川です。これは、10年ほど前の、夏の話になりまして、毎年恒例の怪談ツアーで、電車に乗って地元、東京から北海道に行った事が御座いましたが、その時に宿泊したのは、根室市内の、古風な、なかなか情緒のある旅館で、私は、その旅館に、4日間、滞在しました。そして、その旅館に於いて、怪奇な現象が起こったのは、3日目の夜でした。夕食を済まして、それから、露天風呂にでも入って仕事でヘトヘトに疲れた身体を癒やそうと、部屋の襖に手を掛けたその途端、ぱた、ぱた、ぱた、と言う足音が廊下から聞こえてきて、それから間もなく、
「また出たのよ。気味悪いわね」
と、その旅館の従業員のオバサン達の囁き合う声が漏れてきた。
私は、その時、ああ、この旅館には、幽霊が出るんだな、と思いました。私は、今まで、怪談ツアーで、全国各地を飛び回ってきましたが、幽霊が出る旅館というものは、いくつか御座いました。だから私にとって特段、珍しい事ではありません。その晩も、別に驚かず、襖をスーと開けて、先ほどの騒ぎを尋ねました。すると、廊下に二人いたおばさんの一方が、
「お騒がせしました。この隣の部屋に幽霊が出るのです。毎晩のように現れるので、私たちも困っているのです」
と、言いました。そして、言い終えた後、私の顔を、つくづく眺めて、
「あ、」
と驚嘆の声を上げる。そして、
「お客様、もしや…、テレビの…」
私も、照れ笑いを浮かべて、
「ええ、どうも、稲川です」
それから、そのおばさん達を私の部屋に通しまして、私がかつて九州日本テレビ内の悪霊を退治した話を、ところどころ誇張して語って聞かせましたら、おばさん達は、何やら、互いに顔を合わせ、こそこそ相談をし始めて、それから、一旦、部屋から出て行き、しばらくして、50歳ぐらいの男の人を伴ってまた戻って来て、
「こちらは、当宿の主人です」
と、さっきのおばさんが言う。
「お話は、従業員のほうから伺いました」と、主人が、
「稲川さん、うちの旅館の幽霊も退治して頂けないでしょうか。私たちもどうしていいのやら、途方に暮れているのです。場所は、この部屋の隣です。若い女の霊です。1週間前、地元の霊媒師に来てもらって、その女の霊を供養して頂いたのですが、それでも、また、直ぐに現れるのです。このまま彼女が住み着いてしまえば、うちの宿の看板に傷がついてしまいます。どうか、稲川、お願いできないでしょうか」
私は、首を横に振りました。困った時は、お互い様で、この旅館を救いたいのは、やまやまなのですが、何せ、私の身体は、ヘトヘトに疲れていたので、風呂入って、早く寝て、あすの仕事に備えたかったのです。それに、霊媒師でさえ、手に負えない強力な霊を、素人の私が退治する事は、絶対に無理だと思いました。私は、主人の頼みを断るつもりでいたのです。ところが、主人は、こんなことを言うのです。
「稲川さん、お願いします。聞けば、稲川さんは、怪談界では、よほどの大物らしいじゃないですか。世界に通用する霊感の持ち主だと、みんな噂してますよ。だから、その比類なき霊力で幽霊をうち負かせてください」
私は、言下に答えました。
「引き受けましょう」
そして、その晩は、主人のおっしゃっていた幽霊が出る部屋に泊めてもらうことにして、さて、実際、夜中、布団の上で寝ていると、女のすすり泣く声が聞こえて来ました。いかにも、悲しげに泣いています。そして、そのすすり泣きは、壁際の台の上に置かれた日本人形から聞こえて来ました。
私は、薄く目を開けて、そちらの方へ視線を送りました。すると、しばらく、見ているうちに、女のすすり泣きは、ぴたりとやみ、その代わり、次に現れたのは、火の玉でした。青白い糸をひきながら、ふわふわ飛んでいます。
私は、なおも見続けていると、その火の玉は、日本人形の体内に、すっと吸い込まれ、それと同時に、今度は、日本人形の体内から、長い黒髪を肩まで伸ばした、若い女の人が現れました。なかなかの美貌の持ち主でした。そして、その女の人は、ニヤリと薄く笑って、私に向かって、おいで、おいでの手招きを致します。
さすがに気味悪く、けれども、私は、怪談界の大物になりきっているので、無様に取り乱したりせず、落ち着いて起き上がり、ゆっくりと女の傍に寄って、
「何かわけがあって現れるのだと思いますが、そのわけを聞かせてもらえませんか?」
女の霊は、手招きを止めて、
「私の姿を見たひとは、大抵、悲鳴をあげて逃げ出してしまうものですが、あなたは、まるで微動だにしません。卓越した霊感の持ち主のひとだとお見受けしました。私の話を聞いて下さい。私は、もとは、仙台で暮らしていた女でした。地元の短大を卒業し、やはり地元の企業で働いていました。そして、その会社の同僚と交際して、結婚まで迫りましたが、結局、捨てられてしまいました。失恋の痛手に耐えきれず、ここ根室の旅館までやって来て、そして、二、三日、ここに滞在した後、根室海峡に身を投げました。数日経って、私の死体は、発見されましたが、怒涛と共に岩場に打ちつけられたその身体の損傷は酷く、私は、無縁仏として、葬られました。そして、行き場を失った形となった私の魂は、また、ふらふらとこの旅館に舞い戻って、この日本人形に乗り移りました。早く成仏してあの世に旅立ちたいので、人形の姿を借りて、お客さんに私の供養を頼もうと考えたのです。しかし、人は皆、私の姿を見るや否や、慌てて逃げ出してしまいます。別に私は、この旅館に恨みがあって、現れるのではありません。ただ一刻も早く成仏したいだけなのです。そこであなたにお願いがあります。私の供養をお願いしたい。あなただけが頼りなのです。どうか、私を助けて下さい」
女の眼には涙が溜まっていました。私も、黙って頷きました。
翌朝目を覚まし、洗面所で髭を整えていると、さっそく主人が私の部屋に入って来ました。
「どうでした。隣の部屋にはいるでしょう」
「ええ、居ました。とびきりの美人の霊でした」
それから、私は、昨晩の霊の訴えを主人に伝えました。
「どうすればいいのですか」
「彼女は日本人形に乗り移っているので、お坊さんに人形を供養してもらって下さい」
「さっそくそうします」
最終日のツアーが終わって、再び旅館に戻って、帰り支度をしていると、主人がまた慌ただしくやって来て、
「駄目でした。近所の寺のお坊さんに来て頂いて、お祓いをして貰ったのですが、女の霊は、髭の生えた人に供養してもらいたい、と駄々をこねてきかないらしいのです。どうすればいいのでしょう…」
と、言って、私の顔色を伺って来ました。私は、主人が何を言いたいのか、その底意を見抜きました。
「困りましたね…。私は直ぐにでも東京へ帰らないといけないんですよ」
すると、どうでしょう、主人は、こんな事を言うのです。
「そんなこと言わないで下さい。我々を見捨てるつもりですか。この旅館の死活問題なのです。どうか頼みます。我々の旅館の生命は、稲川さんの義侠心に掛かっているのですよ」
昨晩と比べると、明らかに調子に乗っています。図々しいのにも程があります。しかも義侠心なんて極端な言葉まで持ち出しています。私は、急に冷めてしまいました。
「すみませんけど、私は帰ります。電車の時間が迫っているのです。彼女の霊は、ご主人自ら供養して下さい。私は帰ります」
と、断りました。すると、主人は諦めたように、深くうなだれてしまいました。けれども、彼は、へこたれませんでした。そのうち、ふと顔を上げると、
「大物!」
その後、私は、宿が用意した白装束に着替えて、隣の部屋に行き、彼女の霊の供養を始めました。夜の11時頃から、例の日本人形の前に座って、彼女の霊の現れるのを待って、そうして現れるや否や、チョビ髭を一本だけ引き抜き、それを天高く掲げて、それから、(詳細は、先祖伝来の秘術なので、公開するのは控えます)などなど、あらん限りの声を振り絞り念仏を唱えました。
念仏が終わると、彼女は、その青白い顔に微かな笑みを浮かべて、
「有難うございます。これで、やっとあの世に旅立つ事が出来ます。ほんとうにお世話になりました」
と、お辞儀して、すっと煙のように消えました。
この日以来、旅館では、彼女の霊が現れる事は、もう無いそうです。